日記


僕のポケットの中には、体操選手が住んでいる。
彼女は世界一の体操選手だった。
特に鉄棒が得意で、その見事な体のライン、描く軌跡の美しさから、世間からはビューティフルと呼ばれもてはやされていた。
また彼女は美貌も兼ね備えていたため、世の男性女性の憧れの的だった。
オリンピックで金メダルを取り、国民栄誉賞に選ばれ、「ビューティフル」という言葉が流行語になった。
彼女を知らない者はだれもいなかった。
そんな現状に、彼女は疲れたのだ。
考えても見てほしい、あだながビューティフルだなんて、恥ずかしくてたまらないだろう。
彼女は世間から逃れた。
そして僕のポケットに隠れ、そこで余生を過ごすことに決めたのだ。
国民的英雄の失踪に、世間は騒いでいる。
真相を知っているのは僕だけだ。
僕は彼女をビューティフルとは呼ばない。
僕は彼女を、「よしお」と呼ぶ。
このネーミングに、意味はない。
ただ、栄華を極めた世にも美しい女性を、「よしお」という、言っちゃあ悪いが何だか冴えない男性の名前で呼ぶ、
それも、僕だけが。
僕が彼女を支配している。
何だか、気分がいい。
彼女はいつも僕のポケットの中で体操の演技をする。
素人にはよく分からない超絶回転技をしたり、
僕の指を使って得意の鉄棒をしたり、
ポケットの底にしわを作り、それを跳び箱の台に見立てて演技をしたりする。
その様は、筆舌に尽くしがたいほどに美しい。
僕も世間に習って、ビューティフル、と呼びたくなる。
だけど僕は彼女を、よしお、と呼ぶ。
どれだけ彼女が美しくても、僕は彼女をよしおと呼ぶ。
演技をするよしお。
美しいよしお。
それを独占する僕。
独占っていい言葉だと思う。
ポケットの中には、豊潤な世界が広がっている。
そうして僕は、僕の世界へと堕ちていく。