逆転レイプ

 すっかり更新が滞ってしまったので、2ヶ月前に書いた短編を載せておこうと思いました。






逆転レイプ





 空を見上げると、葉の隙間の向こうに満月が聳えているのが分かる。
 視線を下に向けると、女の白い顔がその明かりに照らされて、神々しく輝いている。
十分ほど歩いたところで、俺は腕の中の女を草の上に置いた。もう体力の限界だった。両の手を膝に押し当て、思う存分、激しく呼吸する。それから覆面を剥いで、とめどなく流れる汗を拭う。普段運動していない上に、拉致などという慣れない作業をしたせいだろう、体力の消耗が著しい。これからもっと慣れない行為をしなければいけないのに、果たしてこんな調子で大丈夫なのか。不安にかられながら、地面で眠る女の体を見る。
女は全く起きる気配がない。体を少しも動かさず、もう生きていないかのように目を閉じてじっとしている。家の病院から持ち出したクロロホルムの効果は抜群だったようだ。
改めて、何て綺麗な女なのだろうと感嘆する。真っ白な肌、理知的で整った小顔、茶色に染まったストレートの長髪、今にもシャツを突き破りそうなくらいに迫力のある胸、細く締まったウエスト、頬擦りしたくなるほどの美脚。
完璧だ。
非の打ち所のない、まるで職人が作り上げた芸術作品のような。
この女が女優やモデルであっても、誰も違和感を抱かない。抱かないのだが、実際の彼女はこの寂れた田舎町でスーパーのアルバイトをしている。それが非常に不自然に映る。似合わない。いつ朽ち果ててもおかしくないゴーストタウンなんかではなく、華やかな世界で優雅に生きるのが似合うのに。
なぜ、俺なんかと大差ない生活をこの女は送っているのか。
真夜中の森の中。僅かに漏れてくる月明かり淡い光の下、俺と女と二人きり。緩い風の音と、俺の荒い息だけが周囲に響く。現実感のない状況に俺は改めて戸惑いを覚え、今時分がしたこととこれからすることに対して猛烈な興奮を覚える。


女がこの町に来たのは、三ヶ月ほど前だった。人口二千人弱の小さな町に転入者が現れるというだけでも目立つのに、その人間が若くて綺麗となれば町中の注目を集めるのは必然だった。女の勤めるスーパーは男性客で賑った。俺も彼女を見るために、何度も足を運んだ。初めてその姿を見て、そのまま惚れた。これほどまでに美しい人間がこの世に存在することが信じられなかった。この女と交際すること、体を重ねることを何度も何度も妄想した。
女を口説こうとした男が何人もいた。成功者は一人もいなかった。皆相手にされなかった。会話すらしてもらえなかった。彼女は、人間との交流自体を絶とうとしているように見えた。恋人は勿論、仲のいい友人も存在せず、町の外れの一軒家で孤独な生活を送っていた。家に押し入って無理矢理迫ろうとした男もいたが、あえなく撃退された。彼女は空手の達人らしい。力で捻じ伏せることが不可能だと分かり、男たちは彼女と深い仲になることを諦めた。
女は一切笑顔を見せなかった。接客時も、同僚に冗談を言われたときも、表情を崩さず、厳しい顔つきのまま対応した。一見不気味に思えるが、彼女にかかればその無表情も鋭く研ぎ澄まされていて芸術的だった。
彼女に対して、様々な噂が立った。この町に来た理由について、他人を拒絶する理由について。俺は興味がなかった。彼女は、下卑たゴシップとは無縁の、清楚で崇高な存在であってほしかったからだ。
俺が女を犯すことに決めたとき、標的をこの女に定めたことは、当然の成り行きだった。嗜虐的性癖のある俺は、神格化している彼女を自らの手で汚してみたかったのだ。まともに向き合えば返り討ちに遭うことは前例により承知だったので、家にある薬を用いて相手の身動きを封じる作戦を取ることにした。俺は生まれて初めて、実家が病院であることに感謝した。小説やドラマの印象から、こういう場合はクロロホルムを布に染み込ませて用いるのが妥当だと判断した。
決行日はこの日の夜と決めていた。クロロホルムと覆面を用意して、車を走らせ、女の家付近で待ち伏せた。女が仕事を終えた帰り道、一人きりになる隙を狙って予定通りクロロホルムを染み込ませた布を口元に当てた。実行中は、誰かに見られないかという懸念と、薬がちゃんと効くだろうかという不安と、初めて彼女の体に触れることに対する興奮とで、気が狂いそうだった。女は気を失った。急いで彼女を車へ入れ、その場から去る。辺りに人影はなかった。どうやら上手く行ったらしい。手に汗握りながら森への入り口へと車を運び、そこから先は女を両手に抱いて奥へと分け入っていく。


そして、今に至る。
体の疲れは取れ、呼吸も平常になる。
心の準備も万端だ。
正体が露呈しないように。
事を起こす決意をした俺は、再び覆面を被り、女の肩に手を当て、強く揺さぶる。
 女が、覚醒する。
 頭痛に顔を顰めながらも、今の自分の状況が分からずにうろたえている。若干ではあるが、彼女の表情が変わるのを初めて見た。
 やがて、女が俺に焦点を合わせる。
「これから、何が起こるか分かってるか」
 胸の鼓動が高鳴る。いつの間にか両手が汗で滑っている。対照的に口内は乾燥していて喉が痛い。
 事態を把握した女は、恐怖に顔を歪める。そして、見逃してくれるよう懇願する。俺はその声に耳を貸さず、思う存分彼女をいたぶり尽くす。
 ここからはそういう展開になるはずだ。いつか女を、廃人になるくらい徹底的に犯してみたかった。その夢がこの女によって叶う。それを想像しただけでも興奮する。股間は既に隆起している。
 だから、そうならないことが分かったとき、俺は大いに混乱した。
 女は、静かに笑った。
 寂しそうな目。
何かを諦めたような、そんな笑い方。
 そして次の瞬間、笑顔が変貌する。
 妖艶な。
 俺のことを堂々と受け入れるような。
むしろ女のほうから攻めてきそうな。
今まで醸し出していた冷徹なイメージとは一転、濃厚な色気が漂い出してくる。
女は、言った。


「いいよ。やろっか。久々だから楽しみだわ。でもレイプって今までになかったシチュエーションね。お姉さんちょっと燃えてくるなー」


 いやいやいや。いやいやいやいやいや。



 女に月の光が掛かる。神秘的な光景で、それを間近で見ている俺は身震いを起こす、はずなのだが、今はそんな余裕はない。
「ねえねえ、早くやろうってば」
「いや、あのな……」
「何ためらってるのよ。あのね、犯される側がゴーサインを出すなんて、これほどありがたいことはないでしょう」
 だから困ってるのだこっちは。
「……あんた、正気か?」
「正気よ。ていうか女襲うやつにそんなこと訊かれたくないわよ」どうしようもなく正論だった。
「あ、もしかして嫌がるところを無理矢理犯したかった?だとしたらゴメンね。今からでも演技しよっか?」
 照れ笑いをして、申し訳なさそうに謝る。その仕草が可愛らしくて、胸を締め付けられそうに、はならない。相変わらず頭の中は混乱状態だ。
 いや、無理矢理犯したかったのは事実だ。事実なのだが、別にそれでうろたえているわけではないのだ。
「あのさ、おかしくないか?」
「何が」
「お前今犯されようとしているんだぞ」
「だから、あたしはそれでいいんだってば。ぶっちゃけあたしセックス好きだからさ」
 俺の中に作り上げた彼女のイメージが、音を立てて崩れていく。
 清楚どころか淫乱で。
 頭も恐らく悪い。
「まあ、いきなりのことで慌ててるのは分かるけどさ、とにかく始めようよ。覆面つけてるから誰だか分からないけどさ、というか素顔が見えても分からないかもしれないけど、どうせあなただってあたしのこと好きな人の一人なんでしょう?」
 自分が好きなんだろう、と当たり前のように尋ねてくる。何という自信家。しかし、それは紛れもなく事実だ。
「そうなんでしょ?だから、あなたが想定してた状況ではないかもしれないけど、あたしとやれるだけで十分満足でしょ?だからいいじゃない。早くしようよ。ていうかあたし早くやりたいんだけど!もうこっち引っ越してから全然してなくてさ、ホント溜まっちゃって溜まっちゃって」
 まるでAV女優のようなことを言う。もしくは下手な男性作家が編み出した、男にとって都合のいい女性像そのもの。
 だから、俺にとっても都合がいいはずなのだが。
「さ、始めましょう」そう言って、彼女は目を閉じ、唇を突き出す。接吻の合図。
 あと少しで手が届く。身を屈めて俺の唇を彼女のそれに合わせれば。
 だけど、それができない。
 正直、俺は怖がっている。
 もし女が抵抗してくれば、それを押しのけるときの勢いで一気に体の接触まで持っていくことが可能だっただろう。
 だが、相手に平然とされれば、逆に戸惑ってしまう。あちらがこれだけ心と体を開いていても、本当にそれに応えてしまっていいのか、ためらってしまう。
 体が震えている。
頬を伝う汗を拭う余裕すらない。
偏頭痛が激しくなる。
心臓が爆発しそうだ。
襲ったのは俺なのに、何故か俺が追い詰められている。
 痺れを切らした彼女が、目を開ける。冷たい目で俺を睨む。
「あたしに恥をかかせるつもり?」
「い、いや、そういうわけじゃないんだけど……」
 彼女はじっと俺を見る。何かを考えているように。俺は、正体が見破られないか不安になる。
 そして、彼女は言った。
「ねえ、あなたってもしかして……」
 言うな。
頼むから、その先を言うな。


「童貞なの?」


 あああ、言っちゃった。



 帰省していたときに会った、幼馴染の言葉。
「東京の女ってみんな綺麗なんだよね。本当にもう天国みたいなところだね。それに比べてこっちは全然ダメ。芋っぽい女ばっかでさ。そんな環境に置かれればさ、自然、俺も見た目に気を遣うようになるよな。初めて美容院で髪切って、色も染めて、一着一万もかかるような服を着てさ。金?ああ、バイトしたのよ。今、原宿でキャバクラのボーイやってんの。すげえいいよ?裏の世界を見られた気分になれるし、キャバ嬢の姉ちゃんとは仲良くなれるし、美味い酒飲ませてもらえるし、もちろん給料もバカみたいにもらえるしな。最高だよ。お前みたいにこんな小さい村でちまちまコンビニのバイトとか俺絶対無理。尊敬するわ、マジで」
「正直さ、俺あんまりセックス好きじゃないんだよね。だって疲れるじゃん?舌動かしたり腰動かしたり大変なんだよ。早くイッたら相手に怒られるしよ。だから俺オナニーのほうが好きだな。自分のペースでできるし、手動かすだけだから全然疲れないしな。だから俺お前が羨ましいよ。セックスにまだ憧れを抱くことのできるお前がさ。純真じゃん?いいことだよな、それって。都会で汚れちまった俺からすれば、お前はまだ少年の心を持ち続けてるんだよ。だから、童貞だからって恥じることなんかねえよ。むしろそれを誇るべきなんじゃねえか?ああ、でも初めてのときはやっぱ最高だったね。あの興奮は一生忘れんよな……」
この後の内容は長いので割愛。
とりあえず頭の中で三回ほど撲殺しておいた。
今回の行動を起こすことを決意したのは、この時だった。


 夜、家を出る前の、父親の言葉。
「こんな夜にどこ出かけるんだ。まあ、どこでもいいか。俺の知ったことじゃない。勝手に行け。もう戻ってこなくてもいいぞ。お前はいらない子供だからな。病院を継がず、大学にも行かず、就職もせずにバイトしながらだらだら暮らしやがって。どうせ女もいないんだろう。お前は何のために生きてるんだ?大した目標もなく、楽しみもなく、食うと寝るの繰り返しだ。そんなの人間じゃない。ただの畜生だ。いや、奴らは食用になることで人様の役に立っているから、お前はそれ以下だな。おい、お前は生きてる価値があるのか?お前を生んだのは失敗だったな。一人しか生まなかったのは失敗だった。もう一人くらい子供を作っておくべきだったな。大誤算だよ、全く。……おい、ここまで言われて、何とも思わないのか?俺を見返して、何か大きいことしてやろうとか思わないのか?まあ、無理か。お前には無理か。行け。行け行け行って来い。もう二度と戻ってくるな。そうすれば俺もせいせいするよ。俺にとってお前は足枷なんだからな」
 心配はいらない。これから、大きなことを俺は行いにいくのだから。



「あなた、いくつなの?」
「……今年で二十一になる」
「で、未だに童貞なわけだ」
「ああ」
「彼女もずっといない」
「そうだ」
「女の子とデートをしたこともなく」
「まあ、そうだ」
「女の子に触ったこともなく」
「いや、それはあるぞ」
「女の子と会話をしたことすらない、と」
「いや、だから」
「ダサッ」言われてしまった。
「その年で童貞だなんて、天然記念物じゃない?」
「そんなことはないって。成人男性の二割は性交経験がないというデータがある」
「知るか」一蹴された。本当なのだが。
「で、自分が童貞であることに耐えられなくなって、あたしを襲うことにしたと?」
「まあ……大体そんなところだ」
 事の最中に初体験だと見抜かれると軽蔑させられる恐れがある。そのために、AVを見て予習したり、体を鍛えたりしていたのだが、何の意味もなくなってしまった。
 力が、抜けた。
 失敗だ。大失敗だ。俺は何も出来ない駄目な奴だ。女一人襲うこともできない。だけど、駄目なのは今に始まったことではない。頭が悪かったから進学校へは行けなかったし、不細工だったから恋愛とは縁がなかった。社交性がないから友人は少なく、人間としての魅力がないから就職もできなかった。昔から俺はどうしようもない人間だった。だから、今更気落ちすることもない。いつもと同じ。二十一年間何度も何度も発生したことだ。悔いることは何もない。
 はずなのに。
 いつの間にか、泣いていた。
 涙が覆面の上を伝い、そのまま染み込んでいく。
「な、何で泣いてるの?そんなに童貞ってバレたことがショックだった?」突然泣き出した俺の姿に慌てた女が、体を起こして俺の手を掴んだ。
「どうしようもないんだって、分かった。親父の言う通り、俺は何も出来ない、生きてる価値のない人間なんだって、今実感できた」
 いつの間にか、今回の行為に俺は大きな意味を持たせていたらしい。それは幼馴染や父親の言葉が契機になったのかは分からない。自己変革するためのチャンスだ、という気負いが気づかないうちに生まれていたようだ。
 ここから俺は堰を切ったように喋り続ける。
「親父の後を継いで医者になることが昔からの目標だった。だけど、高校に入ってから勉強についていけなくなった。授業で何をやってるのかすら分からなくなった。死に物狂いで勉強するように親父に叱られたけど、それができなかった。俺、昔から何かに打ち込むことができないんだ。部活は途中で辛くなって辞めるし、好きな女がいても行動に移せない。本気になれないんだ。全力を出して、結果失敗したらみっともないだとか、そもそも頑張るのが面倒くさいとか、そんなことを思ってしまうんだ。その結果、俺はそのまま落ちこぼれて、大学行けずに何となくフリーターやってる。彼女ができずに未だに童貞。どうしようもないんだ。あまり意識しなかったけど、こうやって思い切った行動をしたのは今回が初めてかもしれない。だけど、全然駄目だったな。拉致した相手に逆に誘われて、ビビって何も出来ず、挙句の果てにその相手に軽蔑されるだなんてな。最高に惨めだよ。だけど、俺らしいっちゃあ俺らしいのかな、ははっ」
 まるで酔っ払いのように、饒舌に、雄弁に、自分語りを延々と続けた。長年心の底に溜まっていた膿を、一気に吐き出した気分だった。女は、それをじっと聞いている。同情する様子も虚仮にする様子も見せず、真剣な顔で俺の語りに聞き入っていた。
 俺は次から次へと溢れ出てくる涙を拭う。女は、そんな俺を大きな瞳でじっと見つめる。
緩い風が二人の間を流れる。頭上では月が輝いている。
 胸の内から再び言葉が上ってくる。俺はそれをそのまま吐き出す。
「一応進学校に通ってたから、同級生はほとんどが大学に行くんだ。大学行くと、みんな変わるよな。地味で冴えなかった奴も垢抜けて、当たり前のように女の話するようになったり、一緒に毎日馬鹿話してたような奴が、将来の夢を語り出すようになったり。みんな変化してるんだ。成長してんだよ。そりゃそうだよな。二十歳過ぎて、もう大人なんだから。そうなって当然なんだよ。だけど、俺だけは何も変わらない。変われない。以前の自分を引きずったまま、空虚な日常を漂ってるだけなんだ。昔は同じ町に住んで、同じ教室で同じ授業を受けて、同じように生きてきたように見えたのに、どこでこれほどの差が出るんだろうな。いつの間にかみんなずっと前を歩いてるんだ。なあ、どうして俺だけ取り残されるんだ?どうして俺だけが駄目なんだ?どうして世の中はこんなに理不尽なんだ?」
 甘いと言われればそれまでだ。弱音を吐いていても何も変わらないという指摘も正しい。その通りだと思う。だけど、これが俺の本心なのだ。自分の怠惰が原因であるのは分かっている。分かった上で、それでも、納得が行かないのだ。
 その後も一通り泣き続け、やがて涙が枯れ果てた。俺が落ち着いた頃合いを見計らって、女が口を開いた。
 恐らく罵倒か軽蔑の言葉を浴びせられるのだろう。そう思っていた俺は、女の発言に意表を突かれた。
「それ、凄く分かる」



「ねえ、あたしが何でこんなド田舎に越してきたと思う?」
 ここで攻守交替。
 次の語り部は女だ。
「さあ。ずっと気にはなっていたけど」
「逃げてきたのよ。男たちから」
「たち……?」
「あたしね、男が大好きなのよ」
 彼女の告白が始まった。
「男と遊んだりセックスしたりするのが好きなの。それも、一人や二人じゃ足りない。すぐ飽きるのよ。常にいろんな男と関係を結んでいないと気が済まないの。誰も理解してくれないけど、毎日同じ食事じゃ耐えられないのに似てるの。幸い、容姿には恵まれてたから相手には不自由しなかった。あたしの男友達とか、会社の同僚とか、あるいは街中でたまたま出くわした人とか、とにかく片っ端から手を出したわ。好みっていうのがなくて、男だったら誰でもよかったのよ。最高で一遍に七人と付き合ったことがあった。生涯で合計すると多分百人越えるんじゃないかな。ちょっと検討つかないわね。とにかく遊びまくった。セックスしまくった。もう病気よね。こんな自分が嫌いだった。最低の女だと思った。一人になって自己嫌悪に苛まれることもよくあったわ。だけど止められないのよ、どうしても。そんなんだったから、たくさんの男から恨まれた。あたしの性質を知った上で付き合ってくれる人もいたけど、大抵は許してくれなかった。当たり前よね。いろんな男に罵声を浴びせられた。売奴、とか、淫乱、とか、いろいろ言われたわ。全部当たってるから何も言い返さなかったけどね。時には手を出された。……全部、倍にしてやり返したけどね。だけど、殺されそうになったのはさすがに堪えた。一回関係を結んですぐ捨てた男で、プライドが高いのか何なのか知らないんだけど怒り狂っちゃってね、夜道で背後から襲われたのよ。包丁持って突っ込んできたの。ぎりぎりで交わしたからよかったけど、もう少し気づくのが遅れれば大変なことになってた。それから、凄く怖くなったのよ。あたしを殺したいと思ってる奴は多分まだたくさんいる。このままだと命が危ない。どこか遠くへ逃げよう。そう思って、仕事辞めて、縁もゆかりもないこの町へ逃げてきたってわけ」
「…………」
「それでね、決めたの。これを機に、男漁りはもう止めようって。普通の女性になってみようって。だから、男が少なそうな、というか人口自体が少なそうなこの町を選んだ。そして、なるべく人と関わり合いを持たないようにして生活してきた。経験上あたしが何をしなくても男のほうから寄ってくるのは分かってたから、それに対しては一切無視することにした。家に侵入してきた奴は撃退した。そうやって、関係を完全に絶つことに成功した。……だけど、それが段々辛くなってきた。我慢し続けることに耐えられなくなってきた。いつも通り、男に媚を売って、愛嬌を振り撒いて、前みたいにたくさんの男とセックスする生活を始めたいという欲求にかられたの」
 何か新しいことを始める時、努力する時、このような誘惑は必ず訪れる。減量を止めて腹一杯食事を摂りたい。筋力トレーニングを放り出して楽に過ごしたい。勉強を諦めて趣味の世界に没頭したい。
 俺は、その誘惑には勝てたことはなかった。彼女は……
「この一ヶ月くらい、ずっと葛藤してた。我慢しよう、我慢しようって、自分に言い聞かせてた。そんな中、あなたに襲われた」
「……」
「ねえ、眠りから覚めて状況を把握したとき、あたしが一番最初に感じたことは何だったと思う?」
 あのとき、彼女は最初、寂しそうに笑った。それから、その笑みが妖艶なものに変貌したのだ。
「やった、久々にセックスできるって、そう思った」
 普通じゃない。
 自称していた通り、この女、病気だ。おかしすぎる。
「男にレイプされて喜んでる女なんて世界中であたしくらいよね、ホント。その異常性に気づいて、やっぱり、駄目なんだって思った。結局あたしは変わらない。どうしたって無理なんだって。もういいや、やっちゃおう。あの瞬間に、諦めちゃったんだよね、全部」
 俺はあの笑顔を見て、まるで何かを諦めたかのようだと感じた。本当に、この女は、諦めていたのだ。自分自身を。
「あなたが悪いんだからね」女は冗談めかして俺を責める。俺は彼女に対して、性的な魅力とは違う、切実な愛おしさを感じる。彼女を他人とは思えなくなっている自分がいる。
 俺も、彼女の話す内容が、凄くよく分かる。
 変わりたいのに、変われない。
 変わらない。
 俺も、彼女も。
 そしてもう一つ、二人の間に存在する共通点。
「ねえ、こんなあたしの悩みを理解してくれる人っていると思う?」
「いや、いないな」俺は即答した。
「そうなのよ」女が頷く。
「一番辛いのがそこなのよ。あたしは真剣なのよ。例えば人間関係が上手くいかなくて悩んでる人や、自分に合った仕事が見つからなくて悩んでる人がいる。内容は異質だけど、同じように本気で苦しんでいることに変わりはない。なのに、それを分かってくれる人は一人もいない。誰もが、淫らだ、狂ってる、そうやって責め立てるだけ。そんなのあたし自身が一番よく知ってるのに」
 手を差し伸べてくれる人は、誰もいないのよね。
寂しそうな声が、最後に薄い唇の間から漏れた。いつの間にか、股間が収縮している。もう俺は、彼女を性欲の対象としては見ていない。彼女は俺の、憐れな同類。
 二十歳過ぎても童貞なんです。
 鼻で笑われるだけ。
頑張ろうとしても諦めちゃうんです。
 甘ったれるなと叱責されるだけ。
 俺は本気で悩んでいても、理解してくれる人はいないのだ。
「孤独だね」
「お互いにな」
「寂しいね」
「そうだな」
「結局、あたしたち、駄目みたいね。何やっても無駄なのかも」
「それは……違うんじゃないか」勝手に言葉が口をつく。
「今回は駄目だったけどさ、それでも俺たちは行動を起こしたじゃないか。それまでとは違って、自分を変えようと努力したじゃないか。今は、それでいいんじゃないのか。きっと、少しだけでも前進できたんじゃないか。そういうことにしとけよ。まだ諦めることなんかないだろ?」
 口に出してから初めて、俺はこんなことを考えていたのかと気づいた。
「人より初体験が遅れてたっていいじゃないか。人より性的嗜好が狂ってたっていいじゃないか。いや、よくはないけど、あまり人と比べなくてもいいだろ?少しずつ、自分のペースで着実に進んでいければ、理想に辿りつけるかは分からないけど、今よりはましな自分になれるんじゃないか?簡単に自分を捨てるなよ、なあ」
 いつの間にかヒートアップしていた。やはり、諦めるのは嫌だ。みっともなくても、ひたすらもがく。失敗を恐れず、少しずつでも変わっていくのだ。
 俺も、この女も。
 そう、祈りたい。
「あなたって、変な人ね」
 彼女は、笑った。楽しげな、とても健全な笑顔だった。俺の心が、ふっとほぐれた。
「じゃあ、分かった。あたしもまだ、諦めない。セックスのペースを、抑えることにする」
「抑える……?」
「そ。当面、相手は一人だけにしておく」
 つまりそれはどういうことかというと。
「ボランティアってとこかな。本来の目的、果たしてあげるよ」
 その一言に、体が強張る。股間が再び膨張を始める。心臓が再び激しく脈打ち、偏頭痛が再び発生する。
「ほ、本当にいいのか……?」
「いいよー別に。何か変に分かり合えちゃったしね。記念ってことで一つ」
「本当かよ……」
「あれー、またビビって止めちゃうのかな?さっきあんだけカッコいいこと言ってたくせに。レイプしなくていいのー?」
「同意の下で行われてるのならもうそれはレイプではないと思う」
「うるさい」一喝された。
「いいから、来てよ。ほら」
 俺を手招きする。
 笑って。
 優しくて、柔和で、天使のような微笑。 
 その笑顔に、俺は胸を締め付けられる。それは遠い昔に感じた、幸福に満ち溢れていて、だけど同時に苦しくて苦しくてたまらない、不思議な気持ち。
 彼女の誘いに乗って、そっと顔を近づける。
 俺は、幼馴染のことを考える。
 彼も、実際には人知れず苦労を重ねているのかもしれない。絶望を感じたことがあるのかもしれない。大学の人間関係で苦しんだり、アルバイトで失敗して叱られているのかもしれない。それでも、何とか自分と向き合って、乗り越えて、新しい自分を築いたのかもしれない。
 親父のことも考える。
 親父は一度、医者になることを諦めようとしたらしい。実家が経営していた店が赤字になり、学費が払えなくなったことがあった。その時、親父は勉学に力を注ぐ傍らアルバイトに精を出し、苦境をぎりぎりで乗り切った時期があったのだ。今では偉そうにふんぞり返っている親父にも、絶体絶命の危機があったのだ。その危機を乗り切るために全力を出して努力した時期があったのだ。
 多分、そんなに違いはないんだ。
 俺もこの女も、他の連中と同じ人間なんだ。
 やってできないことはないんだ。
 その証拠に、俺は今から、念願の初体験なのだから。
「あ、ちょっと待って」
 ゆっくり顔を近づける俺を、女が止める。俺は彼女の気が変わったのではないかと不安になる。
「もう覆面はいいでしょ。取りなさいよ。相手の顔を知らないままセックスするのはちょっと嫌よね」
「ああ、悪い悪い。うっかりしてた」
 俺は女から顔を離し、覆面を取った。傍らに投げ捨て、再び彼女の唇に俺の唇を近づけ、そして彼女に平手打ちされた。
 平手打ちされた。


 ……平手打ちされた?


 は?
「な、何だ一体?」突然のことに気が動転する。右頬が痛い。
「それは……無理だわ」
 女は呆れていた。まるで世にも醜い物体を見ているかのような、嫌悪感を前面に押し出した表情を見せている。
「ど、どういうことだよ」
「あたし、男だったら誰でもいいって言ったけど、ちょっと規格外だわ。そのルックスは」
 規格外のルックス。
 ということは。
「ブサイクすぎるでしょ」
 比喩なんかじゃなかった。
 俺は何も言い返せない。
 女はゆっくりと立ち上がり、何事もなかったかのように歩き出す。車の轍を通って町へ帰るつもりのようだ。
「お、おい!」
 俺はやっとのことで引き止める。
 女は面倒くさそうに振り返り、言った。
「その顔じゃ駄目だね。上手くいくものもいかないよ。よくそれで好きな女がどうのこうの言えたわね」
「……」
「一生オナニーして死ね。じゃあね」
 月の光を背にして、女は去っていった。最後に見せた冷淡な顔が、普段見せているその表情が、結局のところ一番綺麗だと俺は思った。